「TOYOBOだからこそ」〜元Vリーガーたちが語る、セカンドキャリア〜
オー太
TOYOBOには『東洋紡オーキス』というバレーボール部があったって知ってる?
フーちゃん
知らなかった!
オー太
1967年の日本リーグ第1回大会から参戦していたんだよ。1994年にVリーグに移行してからも、二度の優勝を果たしているんだ!
フーちゃん
強かったんだね!
オー太
2002年に解散するまで、35年間も活動していたんだよ。実は、『東洋紡オーキス』で活躍していた元アスリートの中には、現在TOYOBOの社員としてセカンドキャリアを歩んでいる人もいるんだ。
フーちゃん
セカンドキャリア?
オー太
「第二の人生における職業」のことだよ。元アスリートが次にどんな道を選んだのか? 興味深いよね!
フーちゃん
知りたい! 知りたい!
オー太
現役生活を引退して将来に不安を抱える人たちが、どうすれば輝かしい第二の人生を送れるのか? これは、ダイバーシティを考える上でも大切な社会課題だよね。
フーちゃん
ダイバーシティ?
オー太
「多様性」のことだよ。人種、性別、価値観などさまざまな属性を持った人が、それぞれの違いを尊重しながら共存している状態のこと。ビジネスシーンでは今、多様性を生かした組織作りが求められているんだよ。
フーちゃん
そうなんだ。
オー太
そこで今回は、TOYOBO社員として働く元アスリートたちに集まってもらい、どのようにセカンドキャリアを築いてきたのかを聞いてみたよ!
Index目次
メンバーの紹介
濱田[旧姓:萩原(はぎはら)] 美代子(はまだ みよこ)さん
東洋紡株式会社 労働組合本部所属
資産管理、振込、入金、役所の書類管理などを担当。
1999年入社、『東洋紡オーキス』所属。2002年の廃部に伴い引退。趣味は観葉植物を育てること。
庄司[旧姓:田口(たぐち)] 久美子(しょうじ くみこ)さん
東洋紡株式会社 人事・労務総括部労務部給与グループ所属
給与に関わる業務全般を担当。
1999年入社、『東洋紡オーキス』所属。2002年の廃部に伴い引退。最近ハマっているのは「オリックス・バファローズ」の応援。
松下 豊(まつした ゆたか)さん
東洋紡株式会社 総務部長
本社オフィスの管理、全社の保険業務、不動産管理、庶務業務などを担当。
1988年入社。1996〜1999年の間の3シーズン、『東洋紡オーキス』事務局に従事。特技は「人懐こく、誰とでも仲良くなれること」。
今でも続く良い関係
オー太
今日はよろしくお願いします! 皆さんは普段、交流ってあるんですか?
松下:定期的にではありませんが、タイミングを合わせて会うことはありますよ。
斉藤:私は1990年に入社して、1996年に選手を引退しました。濱田さんと庄司さんとは現役時代が少しずれていて、一緒にプレーすることはなかったんですが、食事をしたり、いい関係を続けています。
濱田:私と庄司さんは1999年の同期入社で、斉藤さんの後輩にあたります。
庄司:残念ながら斉藤さんとはプレーでご一緒することはありませんでしたが、後輩の私たちに優しく接してくださって、感謝の気持ちでいっぱいです。
松下:私は1996年11月から1999年10月まで3シーズン、『東洋紡オーキス』の事務局をやらせてもらいました。従業員とチームの橋渡しや応援団の編成など、脇からチームを支える役割でした。
庄司:松下さんはよく体育館にも足を運んでくださり、ボール拾いなんかも積極的にしていただいて、ありがたかったですね。
なぜ『東洋紡オーキス』へ?
皆さんの選手としてのキャリアを教えてください。
斉藤:中学生の頃はスコア係でしたが、高校生になってようやくレギュラーの座をつかみ、主将も務めました。春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)、インターハイ(全国高等学校総合体育大会)では大阪代表として全国大会に出場することができました。その後、国体(国民体育大会)の大阪選抜主将を経て、TOYOBOへという流れです。
松下:色々と誘われたと思いますが、なぜTOYOBOを選んでくださったのですか?
斉藤:複数の企業から声をかけていただきました。でも実は私、高校時代からTOYOBOの合宿にも参加させていただいていて。会社の雰囲気も知っていたし、地元が大阪ということもあって、TOYOBOに決めました。ただ大学へ進学するかどうかは迷いましたね。
松下:そうだったんですか。
斉藤:今でこそ選手寿命は延びていますが、私が現役だった当時はアスリートの寿命って短くて、20歳前後がピークという考えが一般的でした。この一番良い時期に大学で勉強しながらバレーボールを続けるか、それともスポーツ一本で行くか。人生の大きな選択に迷いました。
フーちゃん
大学ではなく、TOYOBOを選んだきっかけは何だったんですか?
斉藤:恩師に「学業は後でもできる」とアドバイスいただいたのがきっかけです。恩師に言われた通り、働き始めてから大学に通い卒業しました。
濱田:私は小学三年生でバレーボールを始めて、25歳で引退するまで17年間、ひたすらボールを追いかけてきました。小学校の卒業文集には、全日本の選手になっている自分を想像して書いたりもしていたので、スポーツ選手の道を歩むことができて、本当に幸せです。
庄司:私も始めたのは小学三年生の時です。その後、ずっとバレーボール漬けの日々でした。高校卒業後は大学でバレーを続けるつもりだったのですが、TOYOBOに声をかけてもらったんです。
庄司:同級生が全員、企業に就職してバレーボールを続ける決断をしていたこともあって、私自身もこんなチャンスはもう二度とないと思い、TOYOBOを選びました。
アットホームな手作りチーム
オー太
『東洋紡オーキス』はどんなチームでしたか?
松下:選手と従業員の距離が近くて、すごくアットホームな雰囲気でしたね。従業員たちがみんな「我がチーム」という意識を持っていて、熱く応援してくれました。
斉藤:当時は会社をあげて応援してもらえて本当に嬉しかったし、励みになりました。私と同世代の女性社員たちが、仕事後にチアダンスの練習をして、週末にはお休みを返上して試合の応援に駆けつけてくれました。
濱田:他のチームだと、専門の外部応援団と契約されているケースが多かったのですが、TOYOBOのチームは音響もチアも自社社員だったんです。
松下:まさに手作りのチームでしたね。
斉藤:関東で試合があると、東京支社の社員たちが一生懸命チアダンスをして応援してくれる。富山に行けば、富山の工場の方々が大声で応援してくれる。本当に心強かったし、ありがたかったですね。
チーム解散に愕然……
フーちゃん
でも、そんな温かいチームが2002年に解散に……。ショックでしたよね!?
松下:2002年当時は景気が厳しく、TOYOBOも経営が大変な時代でした。広告を打ち切ったり、キャンペーンガールも2002年が最後になりました。あらゆる経費が削減されていく中で、バレーボールチームだけを存続させることは難しい状況でした。
庄司:企業母体があっての実業団スポーツですから、チーム解散は仕方がないことだと思います。会社としての決定事項だったんでしょうけど、突然知らされたのでとてもショックでした。
セカンドキャリア、それぞれの船出
オー太
色々なことがあったと思うんですけど、その後、それぞれどんなセカンドキャリアを歩んでいったんですか?
濱田:私は会社と引退後の話をする機会があり、その流れでTOYOBOで働くことを決めました。
とはいえ、ショックはずっと引きずっていて……。
それでも、バレーボール一筋でやってきた私に、周囲の皆さんが理解を示し、優しく接してくださったおかげで、徐々に気持ちも立て直していってスムーズに会社業務へ移行できたと思います。
庄司:ずっとバレーボール中心の生活だったので、私の中では十分やり切ったという気持ちで、思い残すことはなかったです。
地元を離れてずっと大阪で生活してきたし、会社で私が働ける場所があるならTOYOBOに残りたい。その素直な気持ちを、監督を通して会社に伝えていただきました。受け入れてもらえて嬉しかったですね。
オー太
実際にセカンドキャリアがスタートした時は、どうでしたか?
庄司:当時の上司が元々野球をされていて、『東洋紡オーキス』のことも応援してくれていた方だったんです。だから、すごくウェルカムな雰囲気でした。
お酒も教えていただきました(笑)。現役選手の頃は、呑む機会はありませんでしたから、今まで知らなかった世界を教えていただけた気がします。
オー太
良い上司ですね!
庄司:それに、バレーボールをやってきたおかげで根性が身に付きました。業務で辛いことや大変なことがあっても、「バレーボールの練習よりしんどいことはない」。そんな風に思えます。だからたいていのことは乗り越えられますよ(笑)。
斉藤:確かに(笑)。バレーボールの練習って、自分の限界を乗り越えていく訓練でしたから。スポーツで培われた精神的な強さは、セカンドキャリアにも生きているかもしれません。
オー太
斉藤さんは、どうでしたか?
斉藤:私の場合は正直に言うと、本当に孤独で、辛かったです。
松下:斉藤さんは、かなり苦労されているんですよね……。
斉藤:最初の頃は、「バレーボールしかやってきてないのに、これから仕事できるの?」という雰囲気をひしひしと感じました。
でも今振り返ると、私がひたすらボールを追いかけていた間、社員の方々は勉強と仕事に費やされてきたわけですから、それは仕方のないこと。
私としては、少しでも早く仕事に慣れるために頑張るしかありませんでした。
その甲斐あってか、徐々に周りの方々にも信頼してもらえるようになり、助けてもらえるようにもなっていきました。
これからセカンドキャリアに踏み出す人たちへ
フーちゃん
皆さんの場合は、選手から会社員というパターンでしたが、全くの異業種へ飛び込むなど、さまざまなセカンドキャリアがあるかと思います。これから踏み出そうとする方々へアドバイスはありますか?
庄司:謙虚さを忘れないことが一番大事ではないでしょうか。スポーツの世界では「自分が! 自分が!」という自己主張も時には必要ですが、一般社会では、それではうまくいきません。真っすぐ、一つひとつやっていくことだと思います。
斉藤:バレーボールは6人で行うスポーツですが、全員がエースではバレーボールは成立しません。アタッカーだけではダメなんです。レシーブする人、トスする人、ブロックする人がいないといけません。これこそ多様性、ダイバーシティですよね。
フーちゃん
確かに!
TOYOBOで良かった!
オー太
さまざまな選択肢がある中、皆さんはTOYOBOというセカンドキャリアを選ばれました。振り返ってみていかがですか?
濱田:チームが解散して、私は「もうTOYOBOにはいられない」と思っていて。ですから就職活動をイチからやるつもりでいました。そうしたら会社側から「あなたが思うこれからの展望を仰ってください。なるべく沿うことができるようにします」と言っていただけて。目の前が明るくなりました。
庄司:選手を引退後、セカンドキャリアを歩み始めて改めて会社のサポートの手厚さ、優しさを感じました。子どもが幼い頃、何度も熱を出して私が早退することが続いた時も、周囲の皆さんは理解を示してくれて、文句を言わずに快く送り出してくれました。
これからは、私も後輩社員に対して同じような対応ができたらと思います。それが恩返しになると思うので。
斉藤:他の会社の方々と話すと、その度にTOYOBOの社員は恵まれているなぁと感じます。ひとりひとりの特性、置かれている環境などを考慮して人材配置をしてくれている気がします。きめ細かい配慮があるので私も長く働くことができているのだと思います。
松下:TOYOBOは紡績会社としてスタートした会社です。紡績会社というのは、会社側と従業員の関係性を良くすることに長けていると思います。今もその良き伝統が続いているのは素晴らしいことですよね。
オー太
良いお話がたくさん聞けました。本日はありがとうございました!
全員:ありがとうございました!
まとめ
オー太
とても貴重なエピソードを聞かせてもらったね!
フーちゃん
選手たちがセカンドキャリアを切り開いていけたのは、ご本人たちの努力と強さ、そして周囲の理解・優しさだったんだね!
オー太
ダイバーシティへの取り組みが自然にできているってことだね。
フーちゃん
こんな風に、元アスリートの方々が働いていたり、他にも個性豊かな社員がたくさん。ほんと、TOYOBOって面白い会社だよね!
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by TOYOBOとは
TOYOBOの体温を感じる
現場の「声」をお伝えします
TOYOBOの体温とは、世の中の課題解決に挑むTOYOBOで働く人々の日々奮闘する様子やプライドを持って働く熱意です。 なかなか世の中に出ない製品誕生の裏側から、TOYOBOで働く人々の日々のコミュニケーションや暮らしなど、関係者の体温がこもった「声」をお伝えします。
斉藤 信子(さいとう のぶこ)さん
東洋紡せんい株式会社 スクール事業部スクールグループ所属。
全国各地で着用される学生服生地の販売を担当。
1990年入社、『東洋紡オーキス』所属。1996年選手引退。趣味は旅行。推しは「Snow Man」。